イケメン。流石は漫画モンキーターンのモデル!!カッコいい。
東都のエース-。ボートレースで四半世紀近くにわたり、東京の盟主としてこの称号を受け続けているレーサー、それが浜野谷憲吾(46=東京)だ。また「水上のファンタジスタ」の異名も取り、スピード豊かなモンキーターンと華麗なレースぶりでファンを魅了、アニメ「モンキーターン」の主人公・波多野憲二のモデルでもある。40歳代半ばの今もボートの最高峰、SGレースで活躍する「ボートレースのプロ」に聞いた。【構成=中川純】
浜野谷には2歳上の兄憲尚さんがいる。中央競馬ファンにはおなじみ、今年1月の引退まで騎手として活躍していた。浜野谷がボートレーサーを目指したことにも兄の存在があった。
浜野谷憲吾(以下、浜野谷) 兄が競馬学校を受験したのは、身長が低くて(憲尚さんは167センチ、浜野谷は169センチ)、母が体格が小さくてもできる職業を探してきてくれたから。ボートもその1つだった。兄が入学した時、自分は中学2年、14歳。その時にはボートレーサーになろうと決めてました。受験するまでレースをまったく見たこともなかったんですけどね(笑い)。
試験には一発合格した。当時、山梨・本栖湖にあった本栖研修所に70期で入所。ボートレーサーとしての厳しい養成生活を送った。
浜野谷 きつかったです。研修所が厳しいのは、けっこう知られていたんですけど。17歳だったし、運動ができる方だったから体力的には大丈夫だった。厳しいと思ったのは、連帯責任とかですね。その分、同期のきずなは深まったと思いますが。あとは気持ち、もうやるしかない。そこは腹をくくってました。
92年5月、東京・平和島ボートでデビューする。初戦は2着、2戦目には初勝利を挙げた。そして、ボートレースのスピード革命といわれた「モンキーターン」を習得、レーサーとして一気に成長していく。
浜野谷 デビュー当時、兄弟で騎手、レーサーというのは初のケースで、新聞にも取り上げられて、だいぶ注目されたんですよ。下手なことはできない、そう思って水面に出ましたね。モンキーターンはデビュー1年ぐらいして、元祖モンキーターンと言われた東京の先輩、飯田加一さんがやり始めて、スピードがあるし自分もと思って。試運転で試すんだけど、見よう見まねです。いろんな人のターンを参考にしました。最初はターン出口のところだけ腰を上げて、それから徐々にターン全体で腰を上げられるようになって。そんな感じでできるようになっていった。「ターンのこつ」みたいなことを聞かれるけど、これは説明するのが難しいんですよ。右手のハンドルの入れ方、左手のスロットルレバーの操作、右足の蹴るタイミング、ターンでは全部が連動しているし、体が自然に動くように練習で体得していくしかない。選手それぞれの個性もあるしね。
デビューから4年6カ月目の96年、ボート最高峰のSGレース、ダービーに出場を果たす。そこでSG初勝利も挙げたが、1日に2回転覆するという珍記録も残した。さらにターン技術を磨き、25歳になる直前の98年には、同じダービーの舞台でSG初制覇を飾った。
浜野谷 思い出のレースは、やっぱり初めてSGを優勝した福岡のダービーですね。2年前には転覆もしたけど(笑い)。それを取り返すじゃないけど、やらなきゃ、やれるって感じを持って臨んだと思う。大きなレースで結果を出せたことは、また自信になりましたね。
この頃から、浜野谷はそのスピード、見た目のかっこ良さ、スター性で「東都のエース」と呼ばれるようになった。また華麗なターンは「水上のファンタジスタ」の異名も取り、アニメ「モンキーターン」の主人公・波多野憲二のイメージモデルにもなった。そして46歳になった今も第一線で活躍を続けている。
浜野谷 体力面では、鍛えておかないとどんどん落ちていってしまう。トレーナーに付いてトレーニングをしたこともあります。ただ筋肉が付くと体重も重くなるのがね。自分は減量しないといけないから。その辺は考えていかないと。ターンは今でも若手のレースを見て参考にしてますよ。茅原(悠紀)のターンが好きですね、かっこいいと思う(笑い)。
浜野谷のターンは、すご過ぎてまねできない。そう、レーサーの間でもよく言われる。そんな第一人者である浜野谷も努力を怠ることはない。浜野谷にとってボートレースとは-、ボートレーサーを目指す人にもアドバイスをもらった。
浜野谷 天職と言えますね。レーサーになって28年ぐらいになるけど大きなケガをしてない。肋骨(ろっこつ)にヒビが入ったのとアゴを切ったこと、左肩の亜脱臼くらい。14歳でそんな仕事を見つけてくれた親には感謝しかないです。レーサー志望の人には、「やりがいのある仕事です」と言いたいですね。努力次第で収入に返ってくる。それと礼節を大事にしてほしい。自分たちの時とは時代も違うけど、これは何事にも本当に大事なことです。
◆浜野谷憲吾(はまのや・けんご)1973年(昭48)11月8日、東京・目黒区生まれ。92年3月、ボート70期生として登録。同年5月、平和島でデビュー2戦目に初勝利を挙げ、93年9月の戸田一般戦で初優勝を飾る。SGは98年福岡ダービーで初制覇、00年住之江チャレンジカップ、01年住之江グランプリシリーズ、07年平和島クラシックの4冠。記念レースのG1・21回を含め通算優勝は91回を誇る。ファン投票で選出されるSGオールスターは、97年から24年連続出場。兄憲尚さんは元中央競馬騎手。169センチ、54キロ。血液型A。