水球日本代表を経て、レーサーの道へ
ボートレーサーになるためには、まずボートレーサー養成所へ入所する必要がある。養成員の募集は年に2回あり、限られた定員に多数の応募が押し寄せる。その合格率は約40倍。【※】厳しい競争はもうそこから始まっている。※倉持選手受験当時。近年は緩和傾向にあり、2020年4月入所の129期は約20倍。
東京支部に所属する倉持莉々選手は狭き門を突破し、2014年にデビューを果たしている。2018年に開催されたG1 レディースチャンピオンではG1 初勝利を飾るなど、近年めきめきと成長を続ける注目株だ。注目すべきはその個性的なキャリアだろう。彼女はボートレーサーになる前、水球の女子日本代表選手として世界大会に出場している。
養成所の試験は、学科や体力試験、適性検査などさまざま。そこを乗り越えるだけでも至難を極めるが、受験者にとっては体重制限の存在も大きい。男性は49kg以上57kg以下、女性は44kg以上52kg以下でなければ試験を受けることすらできない。倉持選手は水球で付いた全身の筋肉を落とし、体重制限をクリアするために1年間で10kgもの減量を行ったという。それだけの覚悟が彼女にはあったのだ。
「小学生の頃から習い事のひとつとして水球をやっていて、高校で日本代表に選ばれたこともあります。最初の入所試験に合格したのはその年ですね。水球も楽しかったのですが、小学5年生のときに父親に連れられて見たボートレースの迫力に魅了され、小さいときから将来はボートレーサーになると決めていたんです。」
一度は閉ざされかけた夢
ボートレーサーになると決めた倉持選手は、2011年に念願叶って合格倍率43倍(当時)の難関を一発で突破する。幼い頃からの夢へ一歩踏み出し、心憧れていた養成所入学の2週間前。そんな倉持選手を待ち受けていたのはあまりにも非情な運命だった。入学前から原因不明の痛みに苦しんでいた彼女は、かかった病院で「ホジキンリンパ腫」という国内では珍しい悪性リンパ腫の病名を宣告される。入学を辞退せざるを得ず、頭が真っ白に。夢の実現まであと一歩だったのに……。そんな悔しさを抱えながら病と闘う決心をした。「母親からは違う道を勧められましたが、ボートレーサーになる夢は病気になっても変わりませんでした。闘病生活はとても辛いものでしたが、家族や友人たち、水球時代の監督の支えが大きかったです。何より、支えてくれたみんなにレーサーとして夢を叶えた姿を見せたいという思いがあった。だから1年半後に受けた2回目の試験は、1回目よりも強い気持ちと自信を持って臨みました。受からないはずがない! と思っていたので、合格通知を頂けた時はうれしいというよりホッとしましたね」
2度目の合格を受け、無事入学を果たした倉持選手。養成所での生活はとても充実していて、ボートに乗れる喜びを噛み締める日々を送っていたと語る。養成所で行われたリーグ戦では、男子レーサーたちにも負けず見事優勝を飾った。
どんどん勝利を重ねて上を目指す
朝6時の起床から夜10時の消灯時間まで、厳しい規律で管理される養成所での生活。1年間の過酷な訓練をこなし、その先にある夢へとみな真っ直ぐに努力する。仲間や家族の支えもあり、倉持選手は2014年5月、ボートレーサーとしてデビューを飾った。夢を叶えた今、倉持選手がこれから目指すものは何か。「やはりどんどん勝利を重ねてより上に行くことですね。デビューしてすぐはなかなか勝てず、くすぶっていた時期もありました。ですが初めて1着を取れた時、周りのみんなも家族も一緒に喜んでくれて、心の底からもっと勝ちたいと思えたんです。ボートレーサーになった今は毎日がとても充実しています。プライベートでもボートのことを考えるようになってきて、この仕事を本当に楽しめているなと感じますね」
立ちはだかった困難を乗り越え、並々ならぬ努力でボートレーサーの夢を叶えた倉持選手。夢の舞台で誰よりもレースを楽しむ姿は、これからも私たちを魅了し続けてくれる。
ボートレース芸人・永島知洋に聞いた倉持選手
いつも明るく、楽しそうにレースをする姿が印象的な倉持選手。センターから果敢に攻める負けん気のレーススタイルが特徴。オンオフの切り替えがはっきりしていて、レース以外に趣味の絵画や料理など、プライベートの活動もアクティブに発信している。ボートレース愛を持った走りに今後も注目したい。